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なにわ古代史5「聖徳太子墓の謎」(安村俊史・柏原市立歴史資料館館長)
レジメは下記からダウンロードしてください。
http://kansai.main.jp/swfu/d/taishi20230313.pdf
太子町の観光地図
http://kansai.main.jp/swfu/d/taishimachi20230314.pdf
なにわ古代史5「聖徳太子墓の謎」(安村俊史・柏原市立歴史資料館館長)
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太子町の観光地図
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新・大阪学事始「なにわ古代史5」大阪自由大学主催
南河内・太子町の叡福寺北古墳「聖徳太子墓の謎―なぜ太子廟は河内にあるのかー」
南河内・太子町の叡福寺境内にある叡福寺北古墳は聖徳太子の墓とされている。なぜ飛鳥・斑鳩でなく河内に太子墓があるのだろうか。墓は「三骨一廟」といわれ石室には三基の棺が納められているという。残り二基の被葬者は誰だろうか。一帯は「王陵の谷」と呼ばれ,四人の天皇陵などが点在する。戦後には周辺の寺から太子の墓に使われたとみられる漆で塗り固めた棺の断片が見つかった。太子没後約1400年。謎を探ります。
講師 柏原市立歴史資料館館長 安村俊史さん
3月13日(月) 14:00~15:30
会場:大阪市中央公会堂大会議室(地下1階)
22 comments
面白かった
😂😅
聖徳太子って蘇我氏に殺されたのでは❓
聖徳太子の子孫も殺害されたと思ってましたが❓
病没なんですか❓
山岸涼子先生の『馬屋古女王』の漫画が面白かったです。「日出処の天子」の番外編で、聖徳太子がなくなったところから始まります。太子のお墓が描かれていますが、3つの棺が描かれています。妻もほとんど近い時期になくなっていて、やばいです。
敏達天皇の皇后の時から、敏達天皇、用明天皇らが同じ場所に葬られていたのはなぜか?
また、街道沿いにお墓を造ったのはなぜか?
とのこと。
–
どこの古墳のことか忘れたのですが、確か5~6世紀の日本の巨大古墳の話で、今は樹木に覆われているだけの巨大古墳が、当時は御影石のような白く光る石細工で覆われていて、小高い丘の上にそびえるその美しい石細工は、外国の死者が来れば船上からでも、街道からでも見えた、という話を聴いたことがあります。
私は長らく在外なので、日本史のそうした話を聴く機会は少ない。多分、YouTubeに時々投稿されるNHKの歴史番組のどれかで話されていたような気がするのですが。
–
もしそうだとすると、5世紀くらいから、精巧な石細工の技術は伝わっていたことになる。
石棺の細工が精巧になるのは7世紀後半、などということはあり得ませんよね。
また、そうした大掛かりな石細工の建設には年数が掛かりますから、敏達天皇崩御後、すぐに埋葬されなかったのは、天皇に相応しい石造りの古墳が完成していなかったからでは?
エジプトのピラミッド同様、立派な石造りの墓の中に複数の人が埋葬される形式になるのも道理です。
敏達天皇や用明天皇が亡くなったのは、まだ6世紀後半のこと。街道沿いにお墓があったことまで含めて、もしそういう事情なら、すべての謎が解けます。
興味深い解説、ありがとうございます
先生のお話‥納得いくものばかりです。
よいお話を聞かせていただきましてありがとうございます。
墓はあちこちにも在るそうな?
有名人は辛いな😮
600年代は7世紀とちゃいまんのか?
しなが鳥という音曲がありますが不吉ときいてます。しなが鳥とは何鳥でしょうか。
太子廟には、太子は入っていない!突厥出身!古里で異変あり、急遽帰られました。飯岡の蓮花寺の山背大兄王と住み、斑鳩の宮にかょっていました。森浩一名誉教授が、私が主張した時に、生前話されていたようです。😂❤
講話はそこそこ面白かったが、日本の考古学会は当時の先端技術は何でもかんでも半島由来だという病気でも罹っているいるようだ。
しかし、朝鮮の三国史記には新羅の第四代の王は日本から来たと書かれ、また広開土王碑文には、日本が海を渡り百済・新羅らを破って臣民とし、高句麗まで攻め上ったと書かれていることは一切口にしない。口にすると出世コースから外されるのだろう。
まあこれは戦後、G〇Qに強要されたからという話も聴いたが、それが今でも習い性になっているのだろう。これを突破しない限り古代史の真実は見えてこない。
【歴代中華:属國:倭國】【諸侯王:倭國】⇒【白村江の戦い:以前】【領土:新羅、独立】【倭國:属国:百済】⇒⇒【白村江の戦い:敗戦後:現:九州⇒大唐の占領下】
【歴代中華:属國:倭國】⇒【倭國に歴代中華:進士・郷神、派遣⇒宰相】
【日本書紀:許慎:說文解字⇒引伸・後漢・引申】
【楚(熊)・蜀:孫権血族⇒天孫系】【呉:天津】【魏:公孫系】【晋:海神(西晋)⇒海神族】【北周:⇒弗⇒物部】【北斎:大伴金村=公孫系】【隋:蘇⇒蘇我】
【随・唐:血族:蘇綽・蘇威】
【宇文述・裴矩・裴蘊・虞世基らと朝政に参与し、人々から「五貴」と称された。】
【隋:蘇⇒蘇我。⇒【隋書】⇒唐の太宗の血族(遠縁=聖徳太子⇒血筋、血族=蘇⇒蘇我稲目。歴三代⇒用明天皇紀)の関係で太宗の時代まで倭國で宰相の地位を確保。⇒その後、藤原(とうげん)=楚(熊)血族に宰相を譲ります。】
【白村江の戦い:敗戦後:現:九州⇒大唐の占領下】【倭・日本】における敗戦後の処理協定、【九州:筑紫:西暦:幾内遷都:高墳・寺】⇒【移設】⇒【天武天皇】【持統天皇】【文武天皇】
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_20_idea.html
【現代工法:二年六ケ月】【古代工法:十五年八ケ月】
【聖・徳】⇒【歴代中華:天子:天符・賦・丿】⇔【言為禮制度⇔禁止、音韻:號】その結果【生前:廐戸:广(まだれ):崩御後:厩戸:厂(がんだれ)】
【夾紵】⇒【後世:成語】⇒【武周證聖元年(公元695年)⇒夾紵以漆之】⇒【殷:殷人殯於兩楹之間,則與賓主夾之也】【《禮記·喪大記》:喪大記: 絺綌紵不入】
【日本書紀:解讀不可の文法法則】1300年間、解読不能。しかし、真実を編纂しています。
『故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。』
『ぐう‐し【×藕糸】げん‐し【原糸】し‐きゅう【×梓宮】ほう‐し〔ホフ‐〕【法嗣】そう‐ほう〔サウハフ〕【葬法】』
【聖徳太子】⇒【病状、崩御、原因、内臓疾患】⇒【薨:西暦:621年】⇒【古代中國の死生観】⇒【死:浄土】⇒【西暦:622年】⇔【我以來年二月五日必死、因以遇上宮太子於淨土】⇔【來年二月五日】
【補足:このような文法法則を(権謀)(神謀)と記述しています。この解読は漢字、一字一句を周礼五経、說文解字で解読したもので、憶測、推測はありません。】
皇室を認めたくない学者やね、否定ばかりして日本書紀の話も今になって認められるもの大
聖徳太子は架空の人物ではなかったのか?明治以降、皇国史観に基づく架空の創作の人物と思う。聖徳太子制定の憲法もシナの唐の丸写し、天皇陵という物も、明治に御用学者、神主どもに指定されたもので、半分以上は主不明の墓であると言われてる。今では学者でも聖徳太子は架空説をとる人も多くいる。現人神と称された昭和天皇裕仁も無責任極まりない奴で伊勢神宮参拝してもかなわず敗戦、戦争責任など知ったことではないと退位するどころか皇位にしがみついた。特高警察の弾圧に恐れ戦後もうやむやにされた経緯がある。下らん天皇制など廃止すべきだ。天皇制の否定、拒否する。
レジメのダウンロード期限、終了してますか? エラーになりますが。
仁徳天皇陵から石舞台古墳まで直線を引くと、その線上に王陵の谷が乗っかってきます。
王墓や古墳、神社仏閣等の宗教施設を一直線上に並べる事で、蘇我氏一族の繁栄を図る一種の呪術だとは思いますが。
他にも、例えば伊勢神宮と出雲大社を直線で結ぶと平城宮や東大寺の直ぐ側を通りますし。
「偶然だ」と言われればそれまでですが。
聖徳太子の正体
587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。どうしてそれが専横となるのか。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなかった。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂と中大兄は仲間で、鎌足も然り。 聖徳太子暗殺の犯人は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興する為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。
法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの結界所
法隆寺の結界施設の再建には全国から腕の立つ大工が集められた。その中に鳶の弥八と烏の宣太がいた。ある日、職人が帰った後の五重塔の階下の部屋で、藤原家幹部が車座になってとんでもない密談を始めた。何があってもこの敷地からご神体である救世観音像の気が流出せぬ様中門は中央に柱を立て、これを結界とした事。なぜならば、ご神体の頭部に聖徳太子の計り知れない程深い霊験を封じ込める事が出来たからだ。事があった場合は兵を挙げて東西と北から攻め上げ、中門に追い詰めて処置する手はずを取る事。又太子が民衆の精神意識を高める為に編纂させた学問書・旧事本紀は一般に広まると民衆を大変管理し辛くなるので、建立に紛れてここに幽閉する事。その方法は五重塔の舎利器の中に全72巻の内48巻を、残りを救世観音像の体内に納め、決して世に出ない様に封印する事。
実は法隆寺の再建は藤原氏の隠蔽装置の設営作業だったのだ。太子が民衆の為に命を投げ出して編纂した叡智を藤原氏の都合により祟りとして閉じ込める 事に大いに義憤を感じた弥八は、書物をこっそり持ち出そうとした。五重塔の舎利器から抜き出し、観音像は経文が書かれた麻布に巻かれていたが、剥ぎ取ってから抜き出してまた巻き戻した。すると、太子の霊験は、一種の強い怒りとなって抜け出し、夜とはいえ、太陽が地上に降りた様な明るさの中で、強烈な地響きと同時に1本の閃光が途轍もない勢いで天空目指して飛び去った。
日本が朝鮮人に侵略された証拠
現存する最古の仏像彫刻の作品は法興寺の丈六釈迦如来像いわゆる飛鳥大仏である。作者は鞍作鳥で609年完成した。飛鳥大仏をよく見ますと、下着に僧祇支をつけ、その上に大衣をまず左腕にかけてから背中に回して右腕を覆い、最後に左肩にかけています。すると、襟のところが二重になります。ところが、623年、同じ作者が作った法隆寺の本尊である釈迦如来像は襟元が一重である上、衣のつけ方が判らなかったらしく左肩背面のところに衣の端が降りています。先に作った方が大衣のつけ方を知っていて、後に作った方が判らなくなったのは腑に落ちません。
釈迦如来像は飛鳥大仏に比べて顔の表情も気品がなく、日本的ではありません。その上、釈迦如来像は溶胴が十分回らないで穴が空いたので、そこに型を造って再び銅を流し込むという鋳掛を行っています。
このように文化水準が低下したと言うのは、侵略された証拠です。
※京都にある、広隆寺は秦河勝が創建した寺である。その秘仏は聖徳太子像である。なぜ、聖徳太子像に天皇即位式の着物を着せているのか。朝鮮人や中国人が日本の天皇を暗殺して、日本の天皇に成りすましているからである。だから、聖徳太子の怨霊を慰める為に着せているのである。皇室が隠している紋章には右手に獅子が左手に一角獣と10匹の獅子が描かれている。これはイスラエル12支族を表している。天皇家はそのヨゼフ族である。大国主命の国譲りは外来勢力の乗っ取りだったのである。天孫降臨はペテンである。源平藤橘等の公家はすべて朝鮮人である。
平成天皇は韓国のゆかり発言で百済の武寧王の子孫だと認めている。日本の高貴な天皇家が朝鮮人を妻にする筈がない。つまり、父方も朝鮮人である。埼玉県にある高麗神社を参拝している。皇室が隠している紋章には右手に獅子が左手に一角獣が描かれている。つまり、イスラエル12支族のヨゼフ族である。昭和天皇はユダヤ人の慣習である割礼をしている。明治天皇以来、エリザベス女王からガーター勲章を受けている。つまり、メ○○○に忠誠を誓っているのである。
日本は神武天皇(秦の徐福)の御代から外国人に乗っ取られていた。正史竹内文書に神代文字が書かれている。つまり、世界文明の発祥地が日本である。その証拠が聖徳太子が編纂された先代旧事本紀大成経である。宇宙の成り立ちから天地の理が書かれている。東洋医学の神髄の五行六気論が書かれている。フルベッキ集合写真は明治天皇すり替えの証拠となるから抹殺された。その写真に本物の坂本龍馬、西郷隆盛等が写っている。教科書の坂本龍馬は龍馬暗殺の真犯人の勝海舟が化けて写っているのだ。信長殺しの真犯人は秀吉で、光秀は濡れ衣である。光秀は死なないで千利休に化けたがその噂が広まったから、切腹した事にして天海僧正になった。謎になるのは陰謀があるからである。
上の太子が叡福寺、中の太子が野中寺、下の太子が大聖勝軍寺である。つまり、上の太子が聖徳太子、中の太子は息子・高市皇子、下の太子は孫・長屋王である。それぞれ結界が張られている(怨霊封じ)。正史では聖徳太子の子を山背大兄王と偽装している。聖徳太子を厩戸王と呼ぶ訳はキリストが磔刑されたように聖徳太子も暗殺された。大化の改新は太子を蘇我入鹿という悪人に仕立てて暗殺したのである。つまり、キリストがユダヤ人の犯した罪を贖うために殺され、聖徳太子は日本人の犯した罪を贖うために殺された。だから、その暗号としてキリストが厩で生まれたから聖徳太子も厩戸王と呼ばれるのである・
厩戸王の一家全員が同時期に亡んだと理解してましたが 弟君が 生き残っていたんですね.墓石🪨のカーボン時代検証はできるでしょうか?
講師?がこれは違いますといってるのに…確かな資料もないのにここが太子の墓だなんていえるよなあ…
日本の考古学者のいい加減なのがよくわかります…
聖徳太子は河内の叡福寺の他に、奈良の法隆寺でも祀られています。聖徳太子の墓とされる叡福寺の北古墳と、法隆寺の藤ノ木古墳は双子のように相似形だそうです。と言うことは聖徳太子は藤ノ木古墳に埋葬された可能性があります。藤ノ木古墳はミササギ山と呼ばれていたことから大王墓と思われ、江戸時代まで墓守が守っていたそうですから、例のないよほどの重要人物が埋葬されていたようで、副葬品も大王クラスの豪華なものです。ただ藤ノ木古墳には男二人、大柄な人と華奢な人が埋葬されているそうです。これは藤ノ木古墳は元々は蘇我氏が滅ぼした物部守屋の供養のための古墳だそうですから大柄な人は物部守屋で華奢な人が聖徳太子ではないでしょうか。聖徳太子は蘇我入鹿説があり入鹿は大王だったと言う説がありますからミササギ山と呼ばれていたのではないでしょうか。また入鹿は乙巳の変で暗殺されていますから、暗殺されたため急遽守屋の藤ノ木古墳に葬られたのではないでしょうか。