#どうする家康 #史上最大の作戦 #小牧長久手の戦い 賤ケ岳の戦い、北ノ庄城の戦いのあと、いろいろありましたね。
第31回「史上最大の決戦」のあらすじ
お市(北川景子)を死に追いやった羽柴秀吉(ムロツヨシ)に、徳川家康(松本潤)は激怒。打倒秀吉の意志を固める。だが勢いに乗る秀吉は織田信長(岡田准一)の次男・織田信雄(浜野謙太)を安土城から追放。着々と天下人への道を進んでいた。織田信雄からも助けを求められ、10万を超える秀吉軍と戦う方法を考えあぐねていた家康は、本多正信(松山ケンイチ)の日ノ本全土を巻き込む壮大な作戦を採用。しかし、その策も秀吉に封じられ、大ピンチに追い込まれ・・・。
[年表]
天正11年
5月2日 織田信孝、大御堂寺(おおみどうじ)で、織田信雄の命により切腹に追い込まれた。享年26。
5月21日 織田信雄、前田玄以を京都所司代に任命。
6月17日 松平康親、三枚橋城で死去。享年63。
6月下旬 秀吉、織田信雄に天下への出入りを禁じる。
6月下旬から7月中旬ごろ 秀吉、織田信雄の推戴を停止。信雄、安土城から退去。
7月 近衛前久、徳川家康を頼り(徳川氏の創姓は近衛前久と吉田兼右が関わっていた)、浜松に下向。家康が饗応した際、今川氏真も陪席(『景憲(かげのり)家伝』『明良洪範(めいりょうこうはん)』)。この後、今川氏真、しばらく再び消息不明。
8月15日 家康の次女・督姫が北条氏直の正室として嫁いだ。
10月5日 家康、正四位下(遡及)
10月7日 家康、左近衛権中将(遡及)
12月晦日 石川日向守家成の母で家康の叔母・妙西尼 (みょうさいに)の再三の嘆願。三河国門徒兵乱記(解説書)。徳川家康は20年ぶりに国内の本願寺派を赦免。諸寺復興を許可。しかし、空誓は仲介に立っていた本多重次の書状を改竄。家康の許可を得たと偽って、幡豆郡荒川に道場を建立するという事件を起こした。本多重次はこの暴挙を「俗方之上ニも珍敷事」と非難。本願寺に本證寺の処罰を求めた。
天正12年
2月27日 家康、従三位参議(遡及)
2月吉日 荒神山神社に羽柴秀吉が寄進したという石灯籠が今も残る。灯籠には「天正十二年二月吉日」と彫られている。
3月6日 織田信雄、家康と相談した上で秀吉に内通した疑いにより、伊勢長島城で、重臣の津川雄光(義冬)、岡田重孝、浅井長時を殺害。秀吉に宣戦布告(小牧・長久手の戦い)。
3月13日 家康が清須城に到着。
3月13日 犬山城の戦い。池田恒興、犬山城を攻略。
3月15日 家康、小牧山城に駆けつけた。
3月15日 森長可は金山城(かねやまじょう兼山城)を出た。
”
3月16日 森長可は、羽黒(犬山市)に池田勢より突出して布陣。
3月16日 夜半、松平家忠・酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣。
3月17日 早朝、羽黒の戦い。酒井勢は森勢3000人に奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森長可勢。側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退。さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走。森長可勢の死者300余人。